みなさんお疲れ様です。
40歳前後からさまざまな体の変化があり、環境も影響してか、うつ病と思われる症状に悩まされ始めました。
まずは、男性更年期障害を疑い、メンズヘルス外来を受診。採血結果(と先生との相性?)で決定的な診断を下されることなく、中途半端なままセルフケアに挑んでいましたが、人は自分が自分の重荷になると何かにすがりたくなるもの。
自分自身を見つめ直し何かできることはないかと探し始めて分かったのは、厄年であったこと。
神社での厄払いで神の力を借りることに。
男の更年期障害やうつ病を受け入れること
こんなことを聞いたことがあります。
なんだか生きづらいと思っていた大人が、医師から明確に「発達障がい」であることを告げられて、腑に落ちた、と。
そうか、こういう障がいだから自分はこうだったんだ、これができなかったんだ、と納得すると言います。
例えば、みなさんが、あるいはみなさんの家族が大災に遭ったり大病を患ったりしたら、すんなり受け入れることができるでしょうか?
何かを、誰かを恨んだりするでしょうか?その原因を追及したりするでしょうか?
何で向かいの家は無事なのにうちは被害に遭うのか、うちの子だけなんでこんな病気になるのか、その理不尽さに憤り、明かにこちらに非がない場合には国や人に責任を問うこともあるとは思います。
じゃあ、何に対しても、誰に対しても責任を押し付けられない場合や状況があるとすれば?
いや、それでも、それでも人は何かのコトバと一緒にその不遇を飲み込んで自分を納得させているはずです。
人はその人なりにその人なりのコトバで原因を突き詰め、自分の感情を納得させている、
というより、自分の感情を納得させたいがために(時には無理から)突き詰めていると言っても良いんじゃないんでしょうか。
たとえ、運命だから、自然災害だから、しょうがないという、その「しょうがない」というコトバでさえ、自分を納得させるための理由にしているはずです。
前の車が止まったから自分の車も止まる。
そんな風にありのままに受け取ることができず、あおり運転された!とか、ドライバーの体調が急変したのではないか?とか、良くも悪くも前の車が止まった理由を探してしまうもの。
人間はありのままを受け取ることができない生き物ですよね。
つまりは、更年期障害やうつ病、発達障がいなどの生きづらさを受け入れるのにも理由や原因が必要なのです。
しょうがない、とも割り切れず、誰に責任を押し付けることもできない、原因もはっきりしない、今の中途半端な僕は、決定的な何か道しるべ的なものを手探りしつつ悶々とするしかないのです。
男性更年期障害とうつ病と信仰心
ちょっと胡散臭い宗教じみた話になってしまいますが、そもそも僕の家は特に信心深いわけではなく、お盆やお彼岸などでお墓参りするくらいでした。
兄が亡くなってからは家に仏壇が置かれるようになりましたが、僕はというと、特に家の仏壇に手を合わせるということもなく、お墓参りに行くとしても嫌々ついて行っていました。
ただ、年齢を重ねるにつれて家継ぎのことや親の介護、死後のことが気になるようになっていきます。
不思議と習慣として仏壇に手を合わせるようになった、というか、やらなければならない、という義務感。
(そんな器じゃないのに突然ならざるを得なかった)長男としての責任感、みたいな。
そんなことが重荷と感じられるようになったのが40歳であり、更年期障害やうつ病などの体調不良や変化、脱サラや転職の失敗と挫折、人間不信などの押し寄せて来たその40歳が、僕にとって人生の転機であることは決定的です。
まあ、「自分で選んだ道だろ」と、「必然なんだよ」と、言われてしまえばそれまでですが、そんな転機によって自分が、神やらスピリチュアルやら見えざるものへ引き寄せられていることは否定できません。
今なら多分悪徳霊媒師に騙されてもおかしくありません!(笑)
厄年だからと言って恐れる必要もないし、恐れているわけではないのですが、必然か偶然か、幸か不幸か、諸々の事情や今置かれている状況で悩んでいるタイミングでの厄年ですから、もし悪いものに取り憑かれているのなら払ってもらおうと思った次第です。
男性更年期障害の厄年
そう、厄払いによって何か劇的な改善や変化を期待していたわけではないのです。
が、もし、悪いものが取り憑いていたなら(その思考が病んでる証拠笑)、それはそれで納得できるんです。
悪霊のせいで、生き霊のせいで、こうなったんだと。
たとえその取り憑いた悪霊が払えなくとも、良いんです。
(良くない良くない)
次に進めるような気がするんですよね〜。
なんだか悪霊と共に前向きに生きていける気さえする(笑)
厄年とは
以下、改めて。
厄年の年齢は、人の一生の中でも、体力的、家庭環境的、或は対社会的にそれぞれ転機を迎へる時でもあり、災厄が起こりやすい時期として忌み慎まれています。
出典:「厄祓いについて」神社本庁
その年に当たっては、神様の御加護により災厄から身を護るため、神社に参詣をして、災厄を祓う厄祓いやくばらいの儀(厄除け)がおこなわれます。
厄年の年齢は「数え年」で数え、地域によって多少異なるところもありますが、男性が二十五歳・四十二歳・六十一歳、女性が十九歳・三十三歳・三十七歳などを言い、この年齢の前後を前厄・後厄と称します。
補足すると、男女それぞれ42歳と33歳を本厄とし、1番注意が必要とされる年です。
数え年とは、生まれた年(0歳)を1として以後一年毎に重ねていく数え方。
今年で41歳になる僕は、数えで+1の42歳になるので、本厄となります。
「厄」は本来災難を意味しますが、古来から寿命が今より短いということもあり、長寿と等しく祝うべき区切りの年齢であること、そして、一定の社会的責任と役割を負う年齢であることから、神様に仕える「役」として、決して悪い面だけで祈祷するわけではない、ということらしいです。
厄払いと厄除け
厄払い、厄払いと言ってきましたが、世の中には「厄除け」という言葉もあります。
神社でのお払いを➡︎厄払い
寺院でのお払いを➡︎厄除け
という違いがあるようですが、神社によっても「厄除け」としているところもありますので、参考までに。
今回は神社でお払いしてきたので、厄払いで統一しています。
氏神様
どこにお払いをしてもらおうかと、住んでいる家の近くを検索すると、意外と寺や神社が多いものですね〜。
迷いましたし、寺でもできるなら兄の墓がある寺でも良さそうなものですが…。
(兄の墓や寺院は、親族代々受け継がれたような墓や寺院ではない。)
じゃあ、なぜ神社での厄払いを選んだのかというと、家の中での家族関係や近隣関係で思うところがありまして、家やその土地を守っている神さまに厄を払って欲しかったんですね。
氏神様とは
氏神さまは、私たちが住んでいる地域を守っている神社です。氏神さまは、鎮守さま、産土さまともいいます。氏神さまに対して、その地域に住んでいる人すべてを氏子といいます。たとえば、○○神社は××町の氏神、××町の住民は○○神社の氏子というような表現をします。
出典:「各地の神社ー氏神様」神社本庁
氏神のもともとの意味は、氏族、つまり血縁で結ばれた一族の守り神でした。たとえば、源氏の氏神は八幡さまというようにです。
それは、氏族が一定の地域に集団で暮らし、神々をまつっていた古代社会の名残です。それが、時代が下るにつれて、地域の守り神へと変遷してきたのです。
氏神さまは、もっとも身近な神さまです。神社に参拝するときには、まず氏神さまにお参りしましょう。
氏神様の調べ方
じゃあ、自分の家の氏神様はどこにいるのか?といえば、なんと電話1本で調べてくれるそうな。
「神社庁一覧」神社本庁
神社庁は各都道府県に配置されているので、自分の住んでいる都道府県の神社庁に訊けば調べてくれます。
神社本庁・神社庁とは…
昭和21年に設立した、伊勢の神宮を本宗とし、全国8万の神社を束ねる宗教法人。
東京都代々木にある本庁を本拠とし、各都道府県に神社庁を持つ。
公的機関ではなく、民間の宗教法人であること。
神社・神道の宣布、神社の人事・財政事務、神職の養成、祭祀の執行・振興、その他神社活動の広報などを行う。
僕の場合、まず自分の住んでいる栃木県の神社庁ホームページから近くの神社を検索したのですが、
自分の町だけでも5っほどの神社があり、どこが氏神様なのか、どこまで範囲を広げれば良いのか、どこまで範囲を限定すれば良いのか、皆目見当が付きません。
ということで、電話で住所を伝えると、比較的大きく有名な神社であることが判明。
少なくとも地元では知らない人はいないほどの神社ですが、ちょっと遠い💧
しかも結構な山の上…。
なぜ近くの神社ではなかったのかというと、厄払いした氏神神社には、1500年の歴史があるということで、古くからその地域一帯を守ってきたことが分かりました。
*神社本庁は8万の神社を束ねてはいますが、神社庁に属さない神社も多く存在しています。氏神様を調べるときは、親や親族あるいは近くの神社に直接尋ねるという方法も試してください!
「神社本庁で不可解な不動産取引、刑事告訴も飛び出す大騒動勃発」ダイヤモンド・オンライン
「神社本庁」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
きな臭い話やゴシップは好きではないのですが、あくまでも参考程度に。
氏神神社での厄払い
今は各神社の多くがホームページを立ち上げていますから、氏神神社の厄払いも事前に調べることができ、特に焦ったり緊張することはありません。
祈祷料
一般的に1万円前後が相場であるようです。
僕がお願いした氏神神社では、5千、1万、2万、3万円から選べるとのこと。
1番安いものではご利益が少ないと思ってしまうのは僕だけでしょうか?
今回は1万円で厄払い。
お払い
予約は不要ということ、平日であったこともあり、法被(はっぴ)?を着て10分ほどで始りました。
スーツや礼服なら間違いは無いと思いますが、普段着でもお払いしていただきました。
まあ、普段着といっても常識の範囲内で、といったところでしょう。
別の部屋へ通され、静かで厳かな雰囲気の中、祈祷開始。
神主さんが太鼓を叩き、祈願者の祈祷内容、名前、住所などを読み上げる祝詞奏上(のりとそうじょう)を行い、御幣(ごへい)と呼ばれる、割り箸にカクカクした白い紙を付けたような神事用具でお払いを受けます。
ちなみに、お払いをする人は、
正確には神職(しんしょく)さん、一般的には神主(かんぬし)さん、神社の代表者であれば宮司(ぐうじ)さん、と呼びます。
目を閉じ頭を下げると、頭の上でシャカシャカと祈ってくれます。
これが御幣⬇️
出典:「Q.御幣(ごへいと鏡の意味とは?)」神道神社
その後、神主さんの指示通りに、二拝二拍手一拝、玉串拝礼と続きます。
二拝二拍手一拝(二礼二拍手一礼)は、一般的な神社での参拝作法でもあります。
しかし寺院では、合掌・祈念・一礼であり、手を叩いて音を出してはいけないとのこと。
玉串拝礼は、榊(さかき)の枝を捧げて祈願することです。
家など建物を建てる前、何か新しいことを始める時などにも行われる例のやつです。
出典:「玉串拝礼」長野県神社庁
ちなみに僕の氏神神社では、玉串拝礼の時以外は正座ではなく、椅子に座って行われました。
「玉串礼拝・手水の作法」長野県神社庁
お神札の祀り方
30分ほどで終了し、待合室へ戻ると、お神札をいただきます。
(神社でのお札は、書き言葉で、「お神札(おふだ)」と書く。)
で、でかい!
木の厚さよ!
さすが1万円といったところ。
祀り方を教授していただきましたが、神棚があれば神棚へ、無ければ南か東向き(西でも良いとのこと)で、よく目にする、家族が集まるような部屋の高い場所に祀るとのこと。
向きに関しては、自分がお札と向かい合った時の自分の向き(方向)が南か東(あるいは西)、ということです。
納札所
みなさんは古いお守りやお神札はどうしていますか?
おおよそ1年ほどの有効期限らしいですね。
大晦日やお正月のお焚き上げで焼却することもできますが、神社によっては、納札所や古札受付などに常時納めることができるようです。
その際、神社でいただいたお神札やお守りはそのいただいた神社へ、寺院でいただいたお神札やお守りはそのいただいた寺院へ納めるのが通例だそうです。
遠方であったり体の不自由さなどの理由で行けない場合は、近くの神社や寺院でも良いとのこと。
寺社で授けられる、神仏から守られ、災いを避け、幸運をもたらすものを前提とし、
・お札…お守り札のこと。神棚や家に祀る。木や紙等で作られる。
・護符…動植物や鉱物などの物体に祈りや願、呪いが込められた物体のことをいう。霊符。呪符。
広義では、俗世での四葉のクローバーなどを指す。
また、紙に神仏の名や像、呪文、経文、神の使いとされている動物などが書かれたものをいう。
寺社に限らず発行される。
呪力を込めた、まじない、魔除けといったニュアンスが強いように思われる。
・お守り…主に小型で携帯するものをいう。広義では、護符と同義。
・朱印…本来写経して納めた証である印章、印影をいう。御朱印(ごしゅいん)。
寺院・神社の種類
僕の家には、いつもらったんだかわからない古いお神札がいくつかありまして、そのお神札の達筆な筆文字を必死に読み取って、神社でもらったであろうお神札は、氏神神社へ納めました。
寺院の場合、○○寺と書かれていなかったりするんですね。
たとえば、金龍山。
わかりますか?
これは浅草寺のことだそうで、関東に住んでいる人にとっては比較的身近で名のある寺院ですよね。
成田山、と書かれたお札もありました。
これは新勝寺のことです。
山は古くから信仰の対象であり、そこに寺院も多く建てられていたようです。
そこで寺院の名(寺号)とは別に山号という名称を使ったと。
同じく神社にも、〇〇神宮や〇〇大社といった呼び方に違いがあったり、稲荷神社や八幡神社など、ここにも同じ名前の神社がっ!と思うようなことがありますよね。
日本は八百万(やおよろず)の神と言われるほど、多くの神様を祀っていますから、それだけ違う種類の神様がおり、
また、同じ名前の神様が全国各地に祀ってあっても不思議ではないのです。参考リンク
男性更年期障害とうつ病と宗教
とまあ、厄払いを終え、家に帰ってお神札を祀ったわけですが…、何も変わりはしません。
数日経っても、数週間経っても、何も変わりゃあしませんよ。
劇的に何か変わろうはずがない、ってことは知ってはいました。
「ちょっと君、…悪霊が取り憑いていましたよ」という言葉はちょっと期待してはいましたが…(笑)。
(そんなことを訊けるような雰囲気ではないっ)
変わったとすれば、ちょっと気が楽になった。清らかな心持ち。
多分、なんとなく、そんなことが人間にとっての寺社の存在意義であったりするのかなと。
少なくとも現代人にとっては、厄払いだけでなく節目節目の祝い事や祭り事、慣習としての参拝やお払いなど、古くから伝えられている儀式の意味が、気持ちの切り替えやリセット、心機一転、英気を養う、といったことへ成り代わってきている。
それは、つまるところスピリチュアルな体験やパワースポットであり、行く先は興味本位の肝試しなんかにも通じているのではないかと。
今の僕もそう受け取りました。
仏教やら神道やらキリスト教やら、宗教の起源を辿れば、本来、飢饉や病気に対する願いや祈り、転じて人への呪いや恨みの成就(の矛先)が宗教の役割であったりするんでしょうし、当たり前のように祈りを捧げ、人々にとってより身近な存在であったはずです。
もちろん、今でも怪我や病気など災難を払い、祈り、願うこともあり、定期的にお参りする人もいるでしょうが、医療・科学技術の発達によって、徐々に神や仏に頼る必要が少なくなってきている。
そして、医療・科学技術が発達すればするほど、寺社から離れれば離れるほど、寺社や宗教、信仰といったものを極端に捉えるようになってきている。
つまり、少なくともその人にとって深刻な悩みを抱えている人、見捨てられたと感じている人は、藁をもすがる思いで見えざるものにより近づき、頼る一方で、医療・科学技術の恩恵やその情報で満足できる人は、見えざるものから離れていきながらも、(ある意味冷めた目で)スピリチュアルな体験の対象として寺社や宗教、信仰を捉えている、といった、両極端な現象を生んでいるのです。
はっきりと診断されていないけど、更年期障害やうつ病かもしれず、治るかどうかも分からず、今も悩んでいる宙ぶらりんの人に、本当に周りに信じられるものがない、話を聴いてくれる人もいない、頼るものがなかったとしたら…
より見えざるものに近づき、祈ったり、願ったり、信じるしかないんじゃないですか?
そういった意味では、宗教というのも心の拠り所の1つとしてあってもいいですよね。
男性更年期障害とうつ病とスピリチュアル
僕の今回の厄払いはただのスピリチュアルな体験でしかなかったと、言わざるを得ません。
自分では今までにないほど深刻に悩んでいるはずなのに、神や宗教をそれほど重くは受け止めていなかった。
確かに劇的な改善を期待していたわけではありません。
ですが、深刻であるはずならば、神や宗教を信じても良さそうなものです。
が、できない。
医学(というより医師)や人を疑い、宗教ものめり込めない。
おそらくその原因は人を信用せず、拒絶してきたからですかね。
(それこそ今の僕の状況は深刻ではないという表れなのか…。)
宗教の教義といえども、人が考えたもので、やっぱり人なんですよね。(冷めた目線👀)
人が信じられないのに人が作ったものを信じられますかって。
僕の宗教に対する胡散臭さの感じっていうのはここからきているんじゃないですかね。
じゃあ、もう少し踏み入って、たとえば、その見えざるものがこちらに語りかけてきたらどうでしょう。
人じゃなくてコトバ。
誰かが作った言葉ではなく、降ってくるコトバ。
天からか、神からか、はたまた守護霊からか、分かりませんが、誰も知らない自分の秘密を言い当てられるというような、人を介するとはいえ、自分の為と思われる神聖で尊い「おコトバ」が降ってきたらどうでしょう?(馬鹿にしているわけではありません。)
今回の厄払いは、自分も神様も?受動的でしたよね。
まとめ
神か仏か、他の何者かからある手段を介してコトバをいただけけたなら。
占いやスピリチュアルカウンセリングなどであれば、タロットカードや降霊・霊媒術などを手段として、何者かが我々に積極的に語りかけてくれるはず。
神なるコトバを期待しはるばる東京へ行ってこようと思います。
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